ある夜、目の前に一つの家があり、窓から光が漏れていて、人間の影が見えて話し声がします。それを見て「多分人が中にいるのだろう。でも、本当にいると証明できるか?」と自問しました。
答えは「いいえ」です。
以下のように想定問答を色々しましたが、証明できませんでした。
「人間の影が見えるじゃないか」→「ハリボテかもしれない」
「話し声が聞こえるじゃないか」→「録音したものを再生しているだけかもしれない」
「ドアを開けて入ればいいじゃないか」→「今はまだ入っていないから、証明できない」
「じゃあ、開けて入って人がそこにいたら証明になるか」→「自分が入る直前に人がそこに出現したのかもしれないから、今いることの証明にならない」
大体、この「家」というもの自体、本当は中が空洞かもしれない。自分が見ているこのたくさんの建物たちも、全部空洞だったとしても今の自分には分からない。
同様のことを他の事柄についても思います。
例えば、私はアメリカという国があるのを知っていて、地球儀で見てことがあるので形は分かるし、学校で学んだりニュースで見たりしてどんな国かなんとなくわかります。でも、「アメリカは本当に存在するのか?」と問われると「はい」とは答えられません。
自分が持っている証拠は人が作った地球儀や学校やニュースに教えられただけで、それらが真実ではなければ、つまり騙されていたらアメリカは無くてもおかしくありません。
このように、ほとんど全てのことについて私は確証を持っていません。
でも、いちいちそんなことを考えては生きていけない。仕方がないから「多分正しいのだろう」と仮定して生きています。
なので、だからと言って何かをするわけではありませんが、「自分は虚構の上に成り立っているかもしれないが、そうじゃないと仮定して生きているのである」と日々自戒しながら生きていると、物事がクリアに見えます。
ちなみに、「トゥルーマン・ショー」という映画を見て、「自分と同じようなことを考えている人はたくさんいるのだな」と安心しました。