問012 偏見は悪か

問答

偏見を持つことを否定する風潮がありますが、私はそれは間違っていると思います。
偏見によって判断して話したり行動したりすることがいけないだけで、持つこと自体はいけないことではありません。

人の個性はコインに例えて裏表があるという話を以前に書きましたが、偏見という裏の逆にあるのは「予想」です。何かを予想することは人間が効率的に生きる上で必要なことです。
例えば唐辛子を見たら味は辛いだろうと仮定し、辛いのが嫌いだったら食べないし、好きだったら食べます。これが予想です。
辛いのが嫌いなのに、毎回毎回唐辛子のような見た目のものを食べては「辛い!」と思うのは非効率です。唐辛子のような見た目のものは食べない方が良い。
でも、「唐辛子のような見た目でも辛くない食べ物」が存在するかもしれません。辛いものが嫌いな人が見た目から予想してそれを食べない、というのは、辛くないものを辛いとみなしてしまったということです。本当は違うのに、勝手に判断して辛いと思った。偏見と同様です。
つまり、効率的に生きようとするほどに予想をするので、弊害としての偏見が生じるし、予想しないで生きている人はいないので、偏見を持っていない人はいません。

スーツのオーダーに例えてみましょう。大きく分けてパターンオーダーとイージーオーダーとフルオーダーの3つがあります。
フルオーダーは客一人一人の体のサイズを細かく測り、それに基づいてスーツを作ります。イージーオーダーは計測用のスーツを客に着せ、そのスーツからどれくらい違うかを測り、それに基づいてスーツを作ります。パターンオーダーは、既存のスーツの長さを調節します。
ほとんど素人の私の大雑把な分け方ですが、既成服・パターン・イージーが、いわばステレオタイプです。フルオーダーは非常に手間がかかる一方、イージーは幾分か、パターンはだいぶ楽で、既製服は計測自体をしません。

人は、何かを判断するときに毎回毎回フルオーダーの如く考えていては、リソースが不足してしまいます。ですが、全てを既製品のような捉え方をすると、そぐわないことが非常に多い。
対象によってフルにするか、既製にするか、パターンにするか、イージーにするか。自分が偏見を持っていることを認めた上で、その偏見の強さに補正をかけつつ対応するのが正解なのではないでしょうか。

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