私は親から与えられたものも、自分のものだと思います。
親ガチャという言葉をよく聞きます。確かに親によって左右される部分は大きく、子供の生活の内容は大きく変わります。辛く苦しくなったり、楽で面白かったり。それと同質に「どうせ親から与えられたものだし」という目線で見てしまうと見誤ることもあります。
例えば、偏差値が高い私立のZという大学があって、大学から入るにはたくさん勉強して入試に合格する必要があるとします。ですが、裕福な家庭が多額のお金払って幼稚園や小学校から通わせれば、受験なしで内部進学でその大学に行き、卒業できたとします。
受験で入った人をAさん、幼稚園からいた人をBさんとした時、社会に出てからはA・BどちらもZ大卒です。ですが、Aさんは努力してZ大に行ったのだから自分の力だが、Bさんは親のお金で入ったのだから自分の力ではない、という見方が存在します。
私はこれは、間違っていると思います。
BさんはBさんなりに苦労をしてきたはずです。
幼稚園から一貫して大学まで私立で通うことがバラ色なわけではなく、人によってはとても苦痛かもしれません。それを耐え忍んでZ大に入ったわけです。入ってからも、受験でしっかり勉強してきた人と比べて勉強ができない場合もあると思います。それでも頑張って卒業したのだから、自分の力です。
逆を返すと、Aさんだってバラ色だったかもしれません。もし受験勉強が大好きで、親から「受験勉強だけしてればいい」という環境を与えてもらったら苦痛はないかもしれません。そうしたらAさんがZ大を卒業したのは自分の力ではないのでしょうか。
ここで論点として出てくるのが「Z大卒で証明される力とは何か?」ということです。
もしそれが「受験勉強の力」なのであれば、Bさんには力がなく親のおかげかもしれません。ただ、もし証明されるのが「親のお金の力」だとしたら、Aさんにはその「力」がありません。
つまり、AさんのZ大卒は自分のもので、BさんのZ大卒は自分のものではない、としたら、「Z大卒の力とは受験の偏差値である」となってしまいます。受験の偏差値が社会に出た後の力とイコールでないことは、みなさんもよくご存知かと思います。
どんな境遇であってもそれぞれなりの苦労はありますし、苦労が多そうに見えても本人的には苦労ではないこともあります。一面的にものを捉えずに、このように多角的に自分や他人を見て考えることをお勧めします。そうしないと、人を見誤ったり、自信を無くしたりしてしまいます。